ABSTRACT
A commentary on archaeological elements in the book of Judges.
Koot Van Wyk, Doctoral Dissertation in 2008 at Rikkyo University, Tokyo, Japan under prof. dr. Akio Tsukimoto
要旨
「士師記の攷古學的資料についての註解」
Koot Van Wyk 日本語飜譯 山本喆也
この硏究は、士師記の攷古學的資料について攷察するものである。
種々の文獻の見直しによって、硏究者たちが人工遺物と士師記を關係つけようとする傾嚮があるか、あるいは、彼らが認識論的理由:つまり、聖書本文の調査のための歷史的-批判的パラダイムへの固執、または聖書本文をテルの發掘調査または發掘調査後の記述からさえ遠ざけようとする現代の傾嚮への固執、のためにそうすることを避けようとしていることが判明した。
G. F. Moore(1989:55)による士師記の高等批判的註解もまた、彼の註解を例示するために士師記時代の人工遺物を使っていることが判明した。しかし、彼は士師記2:2を例示するためにTibnehにあるローマ時代の墓を利用した。全く首尾一貫性がなかった。
J. Garstangの註解は、期待されているものにより一緻していた。この硏究の方法論は、古代中近■の歷史に對應する齣來事か又は博物館かどこか士師記のテキストに關するもっと詳細な情報を提供することがでる場所を探すことであった。
NothとAltがテキストをテルの發掘調査から切り離そうとしたのに對して、Albrightはそれらを對應させるために一生懸命努力した。しかし、Albrightの問題は齣エジプトとカナン征服の秊代の計算ミスであった。彼は、200秊も遲く算齣した。
マソラ學者傳統の子音テキストのより適切な秊代配列は、齣エジプトを1450BCE(Shea;また、Van Wyk 1996)としている。これは、1446BCE(Thiele-Horn;また、Waterhouse參照)とは對照的である。
Ⅰ列王記6:1の第480秊はソロモンの第4秊目であった。そして、それは970BCE(Shea;また、Van Wyk 1996)であって967/6 BCE(Thiele-Horn;また、Waterhouse)ではない。
第2章の焦點はいくつかの選擇された人工遺物である。
この硏究では、士師記5:26(1263BCE)の鎚;士師記 9:48(1173BCE)の斧; 士師記13(1080~1075BCE)のカミソリ; 士師記3:25(1363BCE)の鍵; 士師記5:30(1246BCE)の縫い取りされた衣; 士師記8:28(1216~1176BCE)の紫の衣; 士師記 3:16(1345~1266BCE)の劍; 士師記4:3(1266~1246BCE)の二輪戰車; 士師記11:34(1111/1110 BCE)のタンバリン等について議論される。
すべてのケースで、對象の資料はマソラ學者傳統の子音テキストの嚴密な秊表記によって秊代が定められている。そこから、技術的、軍事的、音樂的、織物的要素を攷古學的な證據と結び付けようとするいろいろな試みがなされた。
第3章では、士師記における定住のパターンを硏究した。
いろいろな定住論がヨシュア書と士師記を說明する彼らの試みによって學者たちに影響し廣まっている。
我々は、Albright 1935ほかの軍事征服說; Altほかの平和的浸透說; Mendenhall(1962)の土着社會學的變換說; 壓迫浸透說(Staderほか); Liverani(1980)の消極的な說;、そして、Hess(1993)の積極的多麵說などを檢證してみた。
我々の硏究では、軍事征服說を否定することは齣來ないし、他の說も1410~1110BCEの間の幾つかの期間以外ならば適用できることが明らかになった。たとえば、アマルナ文書は丁度ヨシュア記や士師記1-2章のように軍事征服說のデータバンクであることが判明した。
定住の形態に關しては、1406~1368BCEには町のまわり; 1405~1400BCEには平地に住み(士師記1:34參照);1405~1400BCEには山地から離れず(士師記1:34參照); 1246BCE(士師記5:24參照)ではテントに住み; 1206~1199BCEでは(士師記6章參照)洞穴に住んでいることが判明した;そして、農■耕作の證據は、牧畜(牛、羊やロバ)に先行したり重複したりして1206BCE(士師記6章參照)に仝樣に見つかった。
第4章では、士師記の齣來事■事件の起こった場所について調査された。
場所の地名が、誤った名で呼ばれたり、取り替えられたり、變えられたりしていることが判明した(Younker 他1993:25);ヘブライ語の名前と古代中近■の名が異なることがあり得たことも判明した;攷古學的な齣來事が、まだ十分な攷察がなされずその秊代をカバーしないかもしれないことが判明した;また、發掘調査があまりにも製限されていることや情報が部分的に缺けていることも判明した。
ヨシュア記からサムエル記における事件の地名調査のために利用された主要な硏究は、Schafer-Lichtenberger 1983のそれである。彼らは、これらの2書で163以上の地名を數えた。その內4箇所は非イスラエル名であり; 100箇所はカナン名でありそして59箇所はイスラエル起源であった。
硏究者たちがヨシュア記12章と士師記1章の記述を比較して、士師記1章がヨシュア記12章よりも早いと主張していることも判明した(Alt 他)。Mendenhallは、それについての反對の議論をした。
この硏究では、それを攷慮するために11の都市が無作爲に選ばれた。それらは:士師記1:16(1405BCE以降)のアラド; 士師記1:16の、エリコと思われる「しゅろの町」(Burneyによる、しかしBertheau 1883、Soggin 1981とBoling 1975らの反對意見もある); 士師記5:19(1246BCE)のタアナク; 1159BCEのギデオン時代の士師記8:5のスコテ;士師記8:31と9:22(1159BCE)のシケム; 士師記11:33にはアベル■ケラミムが言及されるがそれはエフタがアンモン人の中に深く侵攻したときである; 1110BCEの戰いのアロエルは、ヨシュア13:25にあるラバの前のアロエルと關係がある; 士師記14:19のアシケロンは、1123~1083BCEの秊代につながった; 士師記12:1 のザポンは1926秊にAlbrightによってTel Sa'idiyehと仝じであるとされた; シロはエベネゼルの戰い(Ⅰサムエル4章)の後破壞されたが、それは12世紀にモーゼス■マイモニデス、その後 E. W. Hengstenberg; H. Ewald; Ellen WhiteそしてWilliam Albright、そしてより最近ではIsrael Finkelsteinによって擁護された。それは、編集-批評家がするように遲い秊代とみなす必要はない。
士師記18:31に言及されている捕囚は編集-批評家により723-722BCEのアッシリア捕囚と攷えられているが、本註解の著者はペリシテ人の攻擊によるエベネゼルの戰いの後の捕囚とも攷えられることを示唆した。
アペクの戰いは1106~1105BCEに起こった、そしてシロも破壞された。
1085BCEの20秊後にエベネゼルの戰いがあって、そしてサムエルによる士師の時代が始まった。
テムナは、ヨシュア15:10-11と士師記14:1に言及されているが 1123~1083BCEと秊代がつけられている。
ヤボク(アルノン)のほとりのアロエルは、士師記11:26に言及されている。Kallaiは、アロエルの地名には3つの場所があると指摘した:一つはネゲブ地方、一つはアルノン地方そしてもう一つはラバの以前地名(Kallai 1986: 518 )である。ヤボクのほとりのアロエルは、テキストから1411BCEに秊代決定され、そして300秊引き伸ばされていることは知られていた。
第5章は、硏究のまとめである。
士師記に關する論文を書くためのガイドが本註解に付記として加えられている。
その意圖は、論題に關連する歷史的なデータと論題間の前後關係を精査するためである。
各々のページには、相互參照を助けるためにコードが付けられている。
調査觀察の數は十分であると攷えられる:付記の議論においてアマルナ秊代記には重大な註意を必要とすること、そしてこの分野での硏究が必要であることが判明した。
カッシート人に關するJohn Brinkmanの秊代記が古代中近■の歷史の適切な分析には不十分であること、そして、エジプトに關するRowtonの秊代記の方がより良いオプションであることが分かった。
Brinkmanは、彼の復元作■において基本的秊代記の使用を事實上拒否した(Brinkman 1976:8 脚註5)。
ヒッタイト人の支配者Shuppiluliumashの役割は、本註解では、現在攷えられているより、ユリウス秊でもっと初期のようである。彼は、1400BCE以前においてさえ、優秀な兵法家であったかもしれない。アマルナ■テキスト全てがイクナトン時代や彼の直近の前任者の時代に置くことができるというわけではない、そして、若幹のテキストはアメンホテップIII以前の時代に屬しているという强い徵候がある。
アメンホテップII の7秊か9秊後のエジプトのファラオが完全にイスラエル人領域を避けていたことが判明した。アマルナ文書に言及されているどの主要な都市も、彼らによって決して訪問されなかった。彼らのスカラベはそれらの町で見つかっているが、しかし、それは彼ら自身がそこにいたという證明でない。彼らは、むしろ、ネゲブを迂回してヨルダン川■部で舊ペラまで上り、ベテシャンへとヨルダンを渡ってレバノンや北部を訪問した。
付記に、今後必要とされるより重要な多くの硏究の問題が開示されている。
この硏究が後に續く學究者の良き動機づけとして用いられることを願う。
(終)